夏目漱石の『こころ』。
1956年から国語の教科書に採録されているそうで、誰もが一章くらいは読んだことがある歴史的名著です。
文系学徒として大学の門を叩いたわけですから、教科書に収録された名著くらいは読んどかなきゃなというちょっぴりの義務感のもと、私はこの本を手に取ったのでした。(kindleだけど)
心臓を鷲掴みにするBSS
BSS(僕が先に好きだったのに)
という概念はご存知でしょうか。
BSS (ぼくがさきにすきだったのに)とは【ピクシブ百科事典】 (pixiv.net)
恋愛下手の甲斐性なしなら一度は、もしかすると何回でも辛酸をなめさせられた現象では?
私はこの概念がたまらなく好きなのです。なぜなら私が恋愛下手の甲斐性なしだから。いつだって人間は似たものを求めるもので、恋愛をしなくても生きていけるこんな時代だからこそ、恋愛で失敗し続ける貴重な同志の存在を知れるこのカテゴリは好みなのです。
結末は違えど、『こころ』はあまりにもこの概念の解像度が高すぎる作品でした。
これほどこの概念をみずみずしく描ける夏目漱石、そして採録し続ける国語教育界の性癖はきっとBSSに違いありません。
印象に残ったパンチラインと場面をあげながら、この作品の解像度がいかに高いかを書いていきます。
※作中の先生の一人称は”私” ブログ主の一人称は”わたし”とします
「本当の愛とは宗教心とそう違ったものではないという事を固く信じているのです。」p170
沼地のように重く抜け出せない地獄の始まりはいつだって片想いです。
そして恋愛下手はその相手に異様な忠誠心をもって従属することを意識化、無意識化に行ってしまう哀れな存在なのです。
そのことを先生は見事に言語化してくれました。
異性という存在を意識し始めた私=先生 はかわいいほどに初恋ムーブを見せます。
相手が何をしていてもそれは特別なものに見えますよね。
話したいくせに、相手から話しかけてくれるのを待って、頭に入りもしない勉強を続けるのですよね。
わかります。
そんな美しい体験の記憶の一つ一つが、後に己を蝕む執着へと変わっていく...
結末を知っている神様の視点では、この場面も地獄への伏線のようです。
「私はお嬢さんの声を聞いたのです。声は慥かにKの部屋から出たと思いました。」p199
少し場面は飛んで、Kとの同居生活が始まったころ。
ここらから雲行きがあやしくなってきます。
この一文を読んだとき、心臓がぎゅうと縮こまった感覚がしました。
一気にどろどろとした感情が噴き出てきたでしょう。無意識のうちに鼓動が早くなって、呼吸がしづらくなって...
信仰の対象には自分だけを向いていてほしい。ほかの人間との個人的交流など見たくもありません。
「つまりお嬢さんは私だけに解るように、持前の親切を余分に私の方へ割り当ててくれていたのです。(中略)私は心の中でひそかに彼に対する凱歌を奏しました。」p214
かと思ったらこれです。共感でしかありません。
なんにでもない相手の親切が、自分への特別の好意のように錯覚されてしまうことのなんと多いことか。この現象にどれほど苦しめられたか。
この時の喜びはほとんどドラッグのようなもので、深刻な中毒を引き起こします。この瞬間、先生はお嬢さんへの信仰を、忠誠心を、固執をより強くしたに違いありません。
「ある時はお嬢さんがわざわざ私の室へ来るのを回避して、Kの方ばかりへ行くように思われる事さえあったくらいです。」p215
そしてこうくる。この間わずかに1ページです。ジェットコースターを思わせるような情緒の乱高下が先生にもわたしにも起きています。
さっきとは逆で、何でもない行動の一つ一つがネガティブなものに見えてしまうのもあるあるです。
ただ、この悪い予感というのは当たってしまうことが往々にしてあるというのを、同志の方なら分かってくれるのではないでしょうか。
人一倍あの子のことを観察しているからこそ、変化には敏感なのです。
「するとKのすぐ後ろに一人の若い女が立っていました。(中略)その女の顔を見ると、それが宅のお嬢さんだったので、私は少なからず驚きました。」
そりゃ驚きます。
わたしも信仰していた子のデート現場を何度か目撃したことがありますが、初回は友人たちの目をはばからず泣きました。駅でギャン泣きです。迷惑極まりない。
わたしの場合はまだ、そばに友人がいてくれました。
では、先生は? 一人で生産性のかけらもない思索を繰り広げたでしょう。
これまでのお嬢さんの態度が線でつながったと、早合点したでしょう。
ウロボロスのように終わりのない、かつ真綿で首を締めるようなじりじりとした苦しみです。
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疲れました(笑)
まだまだ『こころ』の核心にはかすりもできていません。ただ、私が『こころ』を通じて共有したかったBSS的部分は書けたかなと。これ以上は、ブログ初心者のわたしの体力がもちません。
そもそもこの作品はBSSですらないのだから、この記事を読んだ方からお𠮟りを受けるかも。
でも、BSS的部分が見事に刺さっちゃったのでしょうがない。
皆さんご存知の結末部分では、どうしてもKは悲劇の人物になります。高校の授業でもそういう扱いでした。
たしかにKはあまりに壮絶な失恋に、自死するほどの苦しみと悩みを与えられました。
それでも、自分の恋愛体験とあわせて読むと、どうも先生に情が移ってしまうのです。
それはやっぱり、作中のBSS的場面に、地獄の苦しみを蘇らせられるからじゃないのかな。
この感想をどうしても誰かに共有したいがゆえに当ブログ第一号記事の題材と相成ったのでした。
近代文学って、すごい。